2010年9月5日

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玖珂隕石に光をあてよう

              
 

 玖珂隕石の歴史

最小化

1.発見のいきさつ

1938年(昭和13年)1月10日、今の岩国市周東町大字川上字小畑(当時は玖珂郡川越村字風子)に於いて、共同作業中に地中から発見された。

繁永家の門前の小道の拡張作業を、10人ばかりで行っていた際のことであった。マンガン鉱の運搬のための、1m幅の細い農道を2mに拡張、且つ平坦化するためであった。

掘り下げと斜面を切り開く作業も、午前中は終わろうかという時刻、つるはしが硬い塊に打ち当たった。表面がさび付いて茶褐色をした、6キロもある重い塊であった。

近くで石垣作りの別の仕事をしていた、鉱山師が玄能で叩いて、2個の小破片を削ぎ落とした。断面が白銀色に輝いて、白金ではないかと騒ぎとなり、所有のいさかいも生じた。

結局、発見地の所有者である、中津井武一氏が保有する事になった。

2.同定までのいきさつ

最初マンガン鉱と思われたが、破断片をもたらした鉱山師は、ニッケルがあるらしいと、指摘したそうである。かなりの見識である。

中津井氏が山口博物館・山口大の前身校・福岡鉱業監督所・満鉄鉱業所・広島大の前身校・国立博物館などで、順次持参して見てもらった。どれも隕鉄であろうと、言われたそうである。なお、国立博物館では当時専門家が居なくて、無料での寄贈を求められたが、持ち帰った。

12年後の1950年春(昭和25年)、山口大学の高橋英太郎教授から、国立科学博物館の朝比奈貞一博士あてに、7,3gの小片が送付された。

研磨と酸処理とで、ウイドウマン・ステッテン組織が現れ、オクタへドライト隕鉄と判明した。また、定性分析では、著量のニッケルが検出された。

なお、25年後の昭和50年4月、山口博物館発行の「山口県の自然」第4巻・第2号(№32)にて、山口大学の渋谷五郎氏の、玖珂鉄隕石に関する報文が載った。EMPAでの分析報告である。

3.命名のいきさつ

山口大の高橋教授から送付されてきた小片の、付属のラベルには「隕鉄・山口県玖珂郡落下(町村不明)(年月日不詳)と、あるだけであった。とにかく一応の研究を終えて、国立博物館の欧文研究報告に、短い論文を発表してしまった。・・・村山定男・文
昭和37年8月、山口県での西日本アマチュア天文大会の開催時に、小川五郎氏の「巨星隕つ」という寄稿文がパンフレットに、掲載された。この中に発見地不詳として、紹介された。

昭和38年春の、山口県立博物館での隕石展準備の際、村岡豊氏が標本箱の底から、小さな紙片を発見した。それには鉛筆で、「山口県玖珂郡川越村・中津井武一」とあった。また、万年筆の別の筆跡で、「1貫五百匁」とあった。

隕石の命名は発見地の最小自治体名をつける、のが一般的である。この物体の場合、町村不明のままで、最初の論文が発表された。そこで、郡名が引用されて、「玖珂隕鉄」という名前となった。

もし発見時に直ちに中央に知られていれば、「川越隕鉄」という名称になったであろう。後述するように、本体確認後に命名されておれば、「周東隕鉄」という名前であったろう。(直前に4町村が合併した)

4.隕鉄本体の確認のエピソード

発見から25年後の1963年(昭和38年)、国立科学博物館の村山定男氏が、当時多摩美大生であった藤井旭氏に、中津井武一氏の所在の確認を託した。彼が山口市出身なので、帰途に立ち寄ってもらうことにした。

手渡されたメモを頼りに、現地を訪れた藤井氏は、隕鉄の生き証人の中津井氏に面談できたばかりでなく、本体そのものに対面する事ができた。


《中津井さんは息子の忠さんに向かって「あの桐箱を持ってくるように」と、声をかけました。しばらくすると忠さんは、見かけよりもずっと重そうな桐の箱を抱えてきました。 「あんたのいう隕鉄は、このことじゃろう」と、私の目の前で箱をひっくり返しました。

「わっ 出たっ ・・・」 転がる鉄の塊を目にした私は大声を出してしまいました。》

…天文年鑑・2005年版…より引用 

5.隕鉄の本体の移管

1963年5月6日夜、村山氏は東京をはやぶさ号で発して、小郡(現・新山口)駅で降車した。4名の出迎えとともに、現地に直行した。

本体は県立博物館の隕石展に出品中だったので、後日東京に借り出す事に、話がまとまった。寄付については、風子集落のための渡川橋の、修理代の一助にしたい、との商談となった。


5月20日、山口博物館長が上京し、他の借用資料の返還とともに、隕鉄も持参した。タイミングよく、昭和38年度予算で購入予定の、マンモスの骨が駄目になったので、30万円の購買余力が生じた。

金額もぴったり辻褄が合って、すらすらと商談成立となった。翌年の1964年1月に、中津井忠夫妻が上京し、手続きが完了。国立科学博物館への移管が決定した。

隕石の木箱の蓋の裏の記入文

「隕鉄. 昭和十三年一月十日 山口県玖珂郡川越村 大字獺越 字風子 田地第三千六百四十二番地   地下十尺の所にて発見す。 其の目方 一貫七百目あり  之を分割して 一貫二百五十目となる」

6.移管後 後日談

移管成立の翌年の1965年2月15日、村山定男宛の私信に、「 隕鉄で架けたる橋 天の川 渡りて行くは月の世界へ 」と、句がしたためてあった。

これは、洪水のたびに流されて難儀となっていた、土橋からコンクリート橋へとの付替え終了のレポートであった。

あの30万円(現在の金額では、おそらく300万円以上)の購入費が、風子集落の悲願の永久橋へと、化身したことへの感激を表している。

奇しくも4年後には、アポロ宇宙船が月面着陸して、人類初の足跡を残した。その2年後には、中津井氏が90歳で他界した。
そして発見から66年後、橋の完成から40年後、発見地に石碑が、橋の袂に句碑が設けられた。

7.休眠期の貢献

執筆中

8.半世紀後のスポットライト

国の認知を受けた玖珂隕鉄は、大きさとしては4番目、その組織の美しさで国外にも知られる存在となった。しかし、天文フアンや一部の地質学者以外に、拡散することはなかった。分厚い山口県地質学書の中でも、1ページが割かれて記述された程度である。

20世紀の幕切れが近づく頃には、天文関係のニュースがちらほら紙面を飾るようになった。隕石のことも、恐竜とともに子供や大人の好奇心をくすぐる時代となってきた。

20世紀後半に、地元でこの隕石に着目していたのは、高森高校教諭の清水であった。パンフレット的な刊行物上とか、役場にせめて案内標識をとアピールした事もあった。歴史的なことに比較して、とかく民衆の関心が薄いのはいずこも同じで、検討の対象にはならなかった。

世紀が変わる頃、突如このことに関心を寄せた人物が現れた。周東町の教育委員会に籍を移した河野であった。彼は町の図書館を補佐する担当になって、島田川シリーズを企画していた。


その町民対象の実地踏査の際に、清水に案内・説明を受けて、取り組みを始めた。しかし内部抵抗は大きく、予算措置はもちろん無く、精神的バックアップもゼロであった。逆風の中で二人がとった針路は、サークルを立ち上げて会費や寄付金で取り組む事であった。

河野には町の合併が間近に迫っていて、一刻の猶予も無いとの判断があった。

会員を集める事は清水の役で、石碑作成その他の枠組みの取り組みは、河野の担当となった。辣腕の河野は半年で、アウトラインを描き終わった。推進の人集めは順調に推移し、5月には発起人会、6月には総会が持たれた。

町の役場からは無視されたが、町議会や文化協会からは理解を得られ、藤井旭氏の講演や子供対象の天文観測会などが企画された。

初代会長には、行政との折衝が多かろうとの推測で、藤岡会員がついた。運悪く選挙がらみで本人が辞退して、副会長の清水が会長に交代した。河野は事務局長できりまわした。

こうして半年ばかりで石碑と説明版の建立、その後道路脇に2箇所の案内標識、隕石橋の袂に句碑を設置して、当初の目的を達した。